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    <title>日本史・合戦タイムライン</title>
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    <description>忘れられない・・・そして、忘れてはいけない戦いの歴史～重要人物の暗殺も含め、時代の転換期をチェック！</description>
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    <dc:creator>indoor-mamarx</dc:creator>
    <dc:language>ja</dc:language>
    <dc:subject>日本史・合戦タイムライン</dc:subject>
    <dc:subject>歴史</dc:subject>
    <dc:subject>年表</dc:subject>
    <dc:subject>日本史</dc:subject>
    <dc:subject>日本</dc:subject>
    <dc:publisher>ニフティ株式会社</dc:publisher>
    <dc:date>2009-10-12T18:57:40+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/391786">
    <title>篠脇城返還</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/391786</link>
    <description>★篠脇城返還
1469年5月12日
応仁の乱の最中、美濃の守護・土岐氏の守護代として勢力を誇っていた斎藤妙椿が、東常緑の居城である篠脇城を攻撃し奪い取るが、「古今和歌集の秘事口伝」であった常緑が妙椿に10首の歌を送り、その歌に感動した妙椿によって領地が返還される。
△斎藤妙椿
△東常緑</description>
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★篠脇城返還
1469年5月12日
応仁の乱の最中、美濃の守護・土岐氏の守護代として勢力を誇っていた斎藤妙椿が、東常緑の居城である篠脇城を攻撃し奪い取るが、「古今和歌集の秘事口伝」であった常緑が妙椿に10首の歌を送り、その歌に感動した妙椿によって領地が返還される。
△斎藤妙椿
△東常緑
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    <dc:creator>indoor-mamarx</dc:creator>
    <dc:date>2009-10-12T19:07:11+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/391785">
    <title>函館総攻撃</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/391785</link>
    <description>★函館総攻撃
1869年5月11日～5月18日
江戸無血開城のあったその日に、幕府海軍・副総裁の榎本武揚は、その指揮下にある軍艦を新政府に渡す事を拒否して江戸湾を脱出・・・海路北海道に渡り、蝦夷共和国を設立して、なおも抵抗を続ける。
しかし、翌・明治二年（1869年）4月9日に始まった新政府軍の上陸作戦で、上陸まもなく江差を制圧され、21日には木古内を、29日には矢不来を落とされ、榎本軍は函館へと追い詰められ、軍艦も回天以外が使用不能となり、もはや、陸戦で戦うしかなくなった榎本軍は、函館の市街を南北に流れる亀田川に沿って、弁天岬台場⇔一本木関門⇔千代ヶ岡陣屋⇔五稜郭⇔権現台場⇔四稜郭と一直線の戦線を造り上げ、決戦に挑む。
かくして明治二年（1869年）5月11日、いよいよ新政府軍は、函館に総攻撃を仕掛ける。
●榎本武揚
○黒田清隆・新政府軍</description>
    <content:encoded><![CDATA[
★函館総攻撃
1869年5月11日～5月18日
江戸無血開城のあったその日に、幕府海軍・副総裁の榎本武揚は、その指揮下にある軍艦を新政府に渡す事を拒否して江戸湾を脱出・・・海路北海道に渡り、蝦夷共和国を設立して、なおも抵抗を続ける。
しかし、翌・明治二年（1869年）4月9日に始まった新政府軍の上陸作戦で、上陸まもなく江差を制圧され、21日には木古内を、29日には矢不来を落とされ、榎本軍は函館へと追い詰められ、軍艦も回天以外が使用不能となり、もはや、陸戦で戦うしかなくなった榎本軍は、函館の市街を南北に流れる亀田川に沿って、弁天岬台場⇔一本木関門⇔千代ヶ岡陣屋⇔五稜郭⇔権現台場⇔四稜郭と一直線の戦線を造り上げ、決戦に挑む。
かくして明治二年（1869年）5月11日、いよいよ新政府軍は、函館に総攻撃を仕掛ける。
●榎本武揚
○黒田清隆・新政府軍
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    <dc:creator>indoor-mamarx</dc:creator>
    <dc:date>2009-10-12T18:57:40+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/385799">
    <title>天王寺合戦</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/385799</link>
    <description>★天王寺合戦
1576年5月3日～7日
元亀元年（1570年）から天正八年（1580年）まで、11年の長きに渡って繰り広げられた織田信長と本願寺の戦い＝石山合戦・・・途中、天正三年（1575年）10月には、信長と顕如の間で講和が成立し、戦いは小休止となるが、ここは、お互いが力を蓄えるための様子見ぃの講和。
この間に、信長は安土城の建設を急ぎ、顕如は鉄砲に長けた紀州（和歌山県）の雑賀（さいが）衆に声をかけ、このゴタゴタの張本人である義昭は、信玄亡き後の大物武将として上杉謙信と毛利輝元に助けを求め、結局、先の講和から、わずか半年後の天正四年（1576年）4月14日、再び合戦の火蓋が切って落とされる。
北東の守口、北西の野田、南の天王寺と、石山本願寺を囲むように、多くの砦を構築した織田の軍勢・・・各砦を拠点に、荒木村重・明智光秀・細川藤孝・原田直政らが、本願寺に向けて攻撃を開始し、願寺の城戸口前まで攻め、本願寺の兵糧を絶つ作戦に出る。
●石山本願寺・顕如
○織田信長


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    <content:encoded><![CDATA[
★天王寺合戦
1576年5月3日～7日
元亀元年（1570年）から天正八年（1580年）まで、11年の長きに渡って繰り広げられた織田信長と本願寺の戦い＝石山合戦・・・途中、天正三年（1575年）10月には、信長と顕如の間で講和が成立し、戦いは小休止となるが、ここは、お互いが力を蓄えるための様子見ぃの講和。
この間に、信長は安土城の建設を急ぎ、顕如は鉄砲に長けた紀州（和歌山県）の雑賀（さいが）衆に声をかけ、このゴタゴタの張本人である義昭は、信玄亡き後の大物武将として上杉謙信と毛利輝元に助けを求め、結局、先の講和から、わずか半年後の天正四年（1576年）4月14日、再び合戦の火蓋が切って落とされる。
北東の守口、北西の野田、南の天王寺と、石山本願寺を囲むように、多くの砦を構築した織田の軍勢・・・各砦を拠点に、荒木村重・明智光秀・細川藤孝・原田直政らが、本願寺に向けて攻撃を開始し、願寺の城戸口前まで攻め、本願寺の兵糧を絶つ作戦に出る。
●石山本願寺・顕如
○織田信長



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    <dc:creator>indoor-mamarx</dc:creator>
    <dc:date>2009-09-15T23:57:11+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/373096">
    <title>織田信孝・自刃</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/373096</link>
    <description>★織田信孝・自刃
1583年5月2日
織田信長亡き後、山崎の合戦で、主君の仇である明智光秀を倒した羽柴秀吉は、織田家家臣の中でトップクラスの地位を獲得・・・続く清洲会議で、信長の孫・三法師を後継者とする事を推し、自らは、その後見人となって、事実上織田家のトップとなるが、信長の三男・信孝を推していた重臣・柴田勝家とは、その不満から賤ヶ岳の合戦で衝突！
敗れた勝家は、北ノ庄落城とともに散り、この戦いに同調していた信孝は、秀吉焚き付けられた兄・信雄の攻撃を受け、居城・岐阜城を開城するが、天正十一年（1583年）5月2日に切腹を命じられる。</description>
    <content:encoded><![CDATA[
★織田信孝・自刃
1583年5月2日
織田信長亡き後、山崎の合戦で、主君の仇である明智光秀を倒した羽柴秀吉は、織田家家臣の中でトップクラスの地位を獲得・・・続く清洲会議で、信長の孫・三法師を後継者とする事を推し、自らは、その後見人となって、事実上織田家のトップとなるが、信長の三男・信孝を推していた重臣・柴田勝家とは、その不満から賤ヶ岳の合戦で衝突！
敗れた勝家は、北ノ庄落城とともに散り、この戦いに同調していた信孝は、秀吉焚き付けられた兄・信雄の攻撃を受け、居城・岐阜城を開城するが、天正十一年（1583年）5月2日に切腹を命じられる。
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    <dc:creator>indoor-mamarx</dc:creator>
    <dc:date>2009-08-26T23:33:34+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/373095">
    <title>函館戦争・夜不来の戦い</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/373095</link>
    <description>★夜不来の戦い
1869年4月29日
慶応四年（1868年）4月・・・新政府から、江戸城明け渡しとともに要求された軍艦の引渡しに納得できなかった旧幕府海軍・副総裁の榎本武揚は、開城のその日、最新鋭の軍艦・開陽丸以下8隻の軍艦とともに、江戸を脱出・・・途中、会津など、東北の残兵を加えながら一路、北へと向かい、破竹の勢いで上陸した蝦夷地（北海道）で、またたく間に幕府の要地を占領・・・その年の12月には、新政府に対抗すべく、蝦夷共和国を誕生させた。
春を待って攻撃を開始した新政府軍が、函館とは反対側の日本海に面した江差に拠点を置き、350人の兵を常駐させ、戦略基点とした。
一方、座礁によって開陽丸失った蝦夷共和国軍は、五稜郭を中心に、函館死守の防御体制を固める。
かくして明治二年（1869年）4月29日・・・夜明けとともに大鳥隊の守っていた矢不来への総攻撃が開始される。
守る大鳥隊・500を攻める新政府軍は1500は、軍艦からの砲撃と、陸での銃撃を巧みに操り、旧幕府軍を圧倒し、その日のうちに矢不来を突破してしまう。
●大鳥圭介（旧幕府・蝦夷共和国軍）
○清水谷公考（新政府軍）

</description>
    <content:encoded><![CDATA[
★夜不来の戦い
1869年4月29日
慶応四年（1868年）4月・・・新政府から、江戸城明け渡しとともに要求された軍艦の引渡しに納得できなかった旧幕府海軍・副総裁の榎本武揚は、開城のその日、最新鋭の軍艦・開陽丸以下8隻の軍艦とともに、江戸を脱出・・・途中、会津など、東北の残兵を加えながら一路、北へと向かい、破竹の勢いで上陸した蝦夷地（北海道）で、またたく間に幕府の要地を占領・・・その年の12月には、新政府に対抗すべく、蝦夷共和国を誕生させた。
春を待って攻撃を開始した新政府軍が、函館とは反対側の日本海に面した江差に拠点を置き、350人の兵を常駐させ、戦略基点とした。
一方、座礁によって開陽丸失った蝦夷共和国軍は、五稜郭を中心に、函館死守の防御体制を固める。
かくして明治二年（1869年）4月29日・・・夜明けとともに大鳥隊の守っていた矢不来への総攻撃が開始される。
守る大鳥隊・500を攻める新政府軍は1500は、軍艦からの砲撃と、陸での銃撃を巧みに操り、旧幕府軍を圧倒し、その日のうちに矢不来を突破してしまう。
●大鳥圭介（旧幕府・蝦夷共和国軍）
○清水谷公考（新政府軍）


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    <dc:creator>indoor-mamarx</dc:creator>
    <dc:date>2009-08-26T23:19:16+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/373092">
    <title>西南戦争・熊本城攻防戦</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/373092</link>
    <description>★西南戦争熊本城攻防戦
1877年2月22日～4月15日
明治十年（1877年）1月30日、鹿児島の私学校の生徒による政府火薬庫襲撃事件に単を発した西南戦争・・・
正々堂々と陸路での北上を決定した薩摩軍は、2月15日に鹿児島を出陣し2月22日には九州の守りの要である熊本城を攻撃するが、天下の名城の守りに苦戦する中、政府の援軍が続々と博多から上陸しているとの情報を得て、一部の兵を熊本城の包囲に残し、本隊は、南下する政府軍を迎撃すべく、さらに北上する。

その後、政府軍に一線を越えさせてはならずと、山鹿～田原～吉次一帯の約40kmに渡って防塁を構築して備えを強化する薩摩軍に対して、3月18日に東側から熊本城の救援を試みる政府警視隊が薩摩軍の熊本城包囲隊に、二重峠にて攻撃を仕掛けると同時に、翌・19日に海路にて迂回して、熊本城の南側にあたる八代海から上陸した別働隊・衝背軍が、八代を占領した事で、政府軍は、3月20日に、田原坂（たばるざか）への総攻撃を開始・・・西南戦争の分岐点とも言える田原坂は、その日のうちに陥落した。
4月1日には宇土を落とした衝背軍は、その勢いのままの4月12日・・・いよいよ熊本城へと進軍する。
かくして、4月15日、1万数千の薩摩の兵に囲まれながらも、52日間耐え抜いた熊本城への包囲が解かれた。
●永山弥一郎（西郷軍）
○谷千城（政府・熊本鎮台司令長官）
</description>
    <content:encoded><![CDATA[
★西南戦争熊本城攻防戦
1877年2月22日～4月15日
明治十年（1877年）1月30日、鹿児島の私学校の生徒による政府火薬庫襲撃事件に単を発した西南戦争・・・
正々堂々と陸路での北上を決定した薩摩軍は、2月15日に鹿児島を出陣し2月22日には九州の守りの要である熊本城を攻撃するが、天下の名城の守りに苦戦する中、政府の援軍が続々と博多から上陸しているとの情報を得て、一部の兵を熊本城の包囲に残し、本隊は、南下する政府軍を迎撃すべく、さらに北上する。

その後、政府軍に一線を越えさせてはならずと、山鹿～田原～吉次一帯の約40kmに渡って防塁を構築して備えを強化する薩摩軍に対して、3月18日に東側から熊本城の救援を試みる政府警視隊が薩摩軍の熊本城包囲隊に、二重峠にて攻撃を仕掛けると同時に、翌・19日に海路にて迂回して、熊本城の南側にあたる八代海から上陸した別働隊・衝背軍が、八代を占領した事で、政府軍は、3月20日に、田原坂（たばるざか）への総攻撃を開始・・・西南戦争の分岐点とも言える田原坂は、その日のうちに陥落した。
4月1日には宇土を落とした衝背軍は、その勢いのままの4月12日・・・いよいよ熊本城へと進軍する。
かくして、4月15日、1万数千の薩摩の兵に囲まれながらも、52日間耐え抜いた熊本城への包囲が解かれた。
●永山弥一郎（西郷軍）
○谷千城（政府・熊本鎮台司令長官）

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    <dc:creator>indoor-mamarx</dc:creator>
    <dc:date>2009-08-26T22:44:17+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/361636">
    <title>高城・根白坂の戦い</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/361636</link>
    <description>★高城・根白坂の戦い
1587年4月12日
織田信長亡き後、柴田勝家を破り、徳川家康を傘下に収め、さらに、長宗我部元親を攻めて四国を手に入れた秀吉にとって、残るは九州であったが、そこへ、かつては豊後（大分県）の王と呼ばれ、一大キリシタン王国を夢見た大友宗麟が、薩摩の島津勢に来襲され、秀吉に救援を求めてくる。
秀吉にとっても、今や九州全土を手に入れんが勢いの島津を、このままにしておくわけにはいかず、ここで九州征伐に乗り出す。
天正十四年（1586年）11月に戸次川の戦いで敗れるも、明けて天正十五年（1587年）3月、自ら20万（12万とも）の大軍を率いて、九州征伐に出陣し、高城を取り囲むように、51箇所にも及ぶ付城を構築し、完全な包囲網を築きあげる。
この包囲網を破るには、奇襲しかないと天正十五年（1587年）4月17日、島津義弘（義久の弟）率いる一軍が、根白坂に布陣する豊臣勢に夜討ちをかけるが、すでに、この情報を得ていた秀吉軍が待ち構えているところへ突入するかたちになってしまい、島津勢は大打撃を受ける。
この高城・根白坂の戦いで、もはや抵抗しがたい事を悟った総大将・島津義久は、薩摩に戻り、泰平寺にて剃髪し、秀吉に降伏の申し入れをする。
ここに、秀吉の九州平定が完了する。
●島津義久
○豊臣秀吉


</description>
    <content:encoded><![CDATA[
★高城・根白坂の戦い
1587年4月12日
織田信長亡き後、柴田勝家を破り、徳川家康を傘下に収め、さらに、長宗我部元親を攻めて四国を手に入れた秀吉にとって、残るは九州であったが、そこへ、かつては豊後（大分県）の王と呼ばれ、一大キリシタン王国を夢見た大友宗麟が、薩摩の島津勢に来襲され、秀吉に救援を求めてくる。
秀吉にとっても、今や九州全土を手に入れんが勢いの島津を、このままにしておくわけにはいかず、ここで九州征伐に乗り出す。
天正十四年（1586年）11月に戸次川の戦いで敗れるも、明けて天正十五年（1587年）3月、自ら20万（12万とも）の大軍を率いて、九州征伐に出陣し、高城を取り囲むように、51箇所にも及ぶ付城を構築し、完全な包囲網を築きあげる。
この包囲網を破るには、奇襲しかないと天正十五年（1587年）4月17日、島津義弘（義久の弟）率いる一軍が、根白坂に布陣する豊臣勢に夜討ちをかけるが、すでに、この情報を得ていた秀吉軍が待ち構えているところへ突入するかたちになってしまい、島津勢は大打撃を受ける。
この高城・根白坂の戦いで、もはや抵抗しがたい事を悟った総大将・島津義久は、薩摩に戻り、泰平寺にて剃髪し、秀吉に降伏の申し入れをする。
ここに、秀吉の九州平定が完了する。
●島津義久
○豊臣秀吉



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    <dc:creator>indoor-mamarx</dc:creator>
    <dc:date>2009-08-10T23:06:33+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/358313">
    <title>板垣退助・襲撃される</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/358313</link>
    <description>★板垣退助が襲撃させる
1882年4月6日
自由党の支持基盤を強固にすべく、3月下旬から東海道を下りながらの全国各地への遊説旅行を続けていた板垣は、この日、岐阜の金華山のふもとにある神道中教院で開かれた自由党の懇親会に参加し、約2時間の演説を終え、旅館へ向かおうと会場の玄関を出た・・・その瞬間！
彼を一目見ようと、玄関わきに群がる群集の中から、1人の男が飛び出し「国賊！」と叫びながら、短刀にて板垣の胸を一突きした。
犯人は愛知県の士族出身の小学校教師で、相原直という28歳の青年で、彼は、政府や組織とは一切関係なく、ただ、東京日日新聞の熱狂的な愛読者であり、その内容に影響されての犯行であった。
幸い命には別状なく、有名な「板垣死すとも自由は死せず」の名ゼリフが残る事になる。

</description>
    <content:encoded><![CDATA[
★板垣退助が襲撃させる
1882年4月6日
自由党の支持基盤を強固にすべく、3月下旬から東海道を下りながらの全国各地への遊説旅行を続けていた板垣は、この日、岐阜の金華山のふもとにある神道中教院で開かれた自由党の懇親会に参加し、約2時間の演説を終え、旅館へ向かおうと会場の玄関を出た・・・その瞬間！
彼を一目見ようと、玄関わきに群がる群集の中から、1人の男が飛び出し「国賊！」と叫びながら、短刀にて板垣の胸を一突きした。
犯人は愛知県の士族出身の小学校教師で、相原直という28歳の青年で、彼は、政府や組織とは一切関係なく、ただ、東京日日新聞の熱狂的な愛読者であり、その内容に影響されての犯行であった。
幸い命には別状なく、有名な「板垣死すとも自由は死せず」の名ゼリフが残る事になる。


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    <dc:creator>indoor-mamarx</dc:creator>
    <dc:date>2009-07-27T22:57:40+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/353928">
    <title>小牧の陣（小牧の対峙）</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/353928</link>
    <description>★小牧の陣（小牧の対峙）
1584年3月22日～4月9日
織田信長亡き後、血族としてその後継者となりたい信長の次男・織田信雄が徳川家康の力を借りて、臣下としてその後を引き継いでいきたい羽柴秀吉が戦った小牧長久手の戦い・・・
天正十二年（1584年）3月13日、配下の池田恒興が犬山城を攻略あいたものの、3月27日の羽黒の戦いで敗北した秀吉は、自ら出陣し、天正十二年（1584年）3月28日、小牧山城の北東約2kmのあたりの楽田城に布陣する。
一方の信雄も、翌・29日に、伊勢長島から小牧山に移動し、家康と合流・・・ここに、秀吉・8万と家康＋信雄・1万6千は、わずかの距離を挟んだだけの一触即発の状態のまま、にらみ合う事となる。
▲羽柴（豊臣）秀吉
▲織田信雄・徳川家康

</description>
    <content:encoded><![CDATA[
★小牧の陣（小牧の対峙）
1584年3月22日～4月9日
織田信長亡き後、血族としてその後継者となりたい信長の次男・織田信雄が徳川家康の力を借りて、臣下としてその後を引き継いでいきたい羽柴秀吉が戦った小牧長久手の戦い・・・
天正十二年（1584年）3月13日、配下の池田恒興が犬山城を攻略あいたものの、3月27日の羽黒の戦いで敗北した秀吉は、自ら出陣し、天正十二年（1584年）3月28日、小牧山城の北東約2kmのあたりの楽田城に布陣する。
一方の信雄も、翌・29日に、伊勢長島から小牧山に移動し、家康と合流・・・ここに、秀吉・8万と家康＋信雄・1万6千は、わずかの距離を挟んだだけの一触即発の状態のまま、にらみ合う事となる。
▲羽柴（豊臣）秀吉
▲織田信雄・徳川家康


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    <dc:date>2009-07-08T22:23:00+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/353927">
    <title>天狗党・挙兵</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/353927</link>
    <description>★天狗党・挙兵
1864年3月27日
文久三年（1863年）朝廷からの再三再四の攘夷の催促に、14代将軍となった徳川家茂は、「5月10日に攘夷を決行する」と約束をするが、その約束通りに攘夷決行＝外国船に砲撃したのは長州だけ・・・そのうえ、八月十八日の政変で、朝廷から尊王攘夷派が一掃されてしまった事で、「何もしない幕府に、今こそ水戸藩が攘夷決行を訴えなくてはならない！」と決意した水戸藩の尊王攘夷派・藤田小四郎が、仲間を募って筑波山にて挙兵・・・天狗党が誕生する。
</description>
    <content:encoded><![CDATA[
★天狗党・挙兵
1864年3月27日
文久三年（1863年）朝廷からの再三再四の攘夷の催促に、14代将軍となった徳川家茂は、「5月10日に攘夷を決行する」と約束をするが、その約束通りに攘夷決行＝外国船に砲撃したのは長州だけ・・・そのうえ、八月十八日の政変で、朝廷から尊王攘夷派が一掃されてしまった事で、「何もしない幕府に、今こそ水戸藩が攘夷決行を訴えなくてはならない！」と決意した水戸藩の尊王攘夷派・藤田小四郎が、仲間を募って筑波山にて挙兵・・・天狗党が誕生する。

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    <dc:date>2009-08-10T22:37:14+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/353925">
    <title>宮古湾海戦</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/353925</link>
    <description>★宮古湾海戦
1869年3月25日早朝
江戸幕府海軍副総裁の榎本武揚は、江戸城無血開城となった前年の4月11日の夜、開陽丸を中心とする幕府軍艦・8隻を率いて、館山に退去・・・そのまま、海軍を引き連れて北へと向かい、蝦夷地に着いた榎本らは、すでに新政府軍に引き渡されていた函館を奪い、五稜郭を奪取して、慶応から明治元年に改められた1868年の12月、蝦夷共和国を誕生させた。
しかし、その後、開陽丸が、嵐のために座礁、最新鋭の軍艦を失った榎本らは、幕府が購入したにも関わらず、新政府軍に引き渡されてしまったストーンウォール号（日本名：甲鉄）を奪うべく、明治二年（1869年）3月25日早朝、回天1隻にて宮古湾を襲撃するも、わずか30分ほどで、この奇襲作戦は失敗に終る。
●土方歳三以下蝦夷共和国軍
○明治新政府軍</description>
    <content:encoded><![CDATA[
★宮古湾海戦
1869年3月25日早朝
江戸幕府海軍副総裁の榎本武揚は、江戸城無血開城となった前年の4月11日の夜、開陽丸を中心とする幕府軍艦・8隻を率いて、館山に退去・・・そのまま、海軍を引き連れて北へと向かい、蝦夷地に着いた榎本らは、すでに新政府軍に引き渡されていた函館を奪い、五稜郭を奪取して、慶応から明治元年に改められた1868年の12月、蝦夷共和国を誕生させた。
しかし、その後、開陽丸が、嵐のために座礁、最新鋭の軍艦を失った榎本らは、幕府が購入したにも関わらず、新政府軍に引き渡されてしまったストーンウォール号（日本名：甲鉄）を奪うべく、明治二年（1869年）3月25日早朝、回天1隻にて宮古湾を襲撃するも、わずか30分ほどで、この奇襲作戦は失敗に終る。
●土方歳三以下蝦夷共和国軍
○明治新政府軍
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    <dc:date>2009-07-08T22:00:13+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/353923">
    <title>第3次高天神城の戦い</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/353923</link>
    <description>★第3次高天神城の戦い
1579年10月～1581年3月22日
天正二年（1574年）に、この念願の高天神城を奪取した武田勝頼は、勇将の誉れ高き岡部元信に守らせ、国境の戦略拠点としていたが、1579年10月武田との敵対をあらわにした徳川家康は、高天神城・攻略の準備に入り、翌・天正八年（1580年）には、この城を兵糧攻めにすべく、周辺の三井山などに、六つの砦・対城などを構築し、さらに深い水堀、何重にも連なった大柵を築いた。
城を守る元信以下約1000名の城兵は、弾薬も兵糧も運び込めない状態の籠城戦となるも、徳川軍の度々の攻撃をその都度撃退し、耐え抜いてたが、完全包囲されてから10ヶ月、いよいよ兵糧の尽きる天正九年（1581年）3月22日、討死覚悟で撃って出た。
●岡部元信
○徳川家康</description>
    <content:encoded><![CDATA[
★第3次高天神城の戦い
1579年10月～1581年3月22日
天正二年（1574年）に、この念願の高天神城を奪取した武田勝頼は、勇将の誉れ高き岡部元信に守らせ、国境の戦略拠点としていたが、1579年10月武田との敵対をあらわにした徳川家康は、高天神城・攻略の準備に入り、翌・天正八年（1580年）には、この城を兵糧攻めにすべく、周辺の三井山などに、六つの砦・対城などを構築し、さらに深い水堀、何重にも連なった大柵を築いた。
城を守る元信以下約1000名の城兵は、弾薬も兵糧も運び込めない状態の籠城戦となるも、徳川軍の度々の攻撃をその都度撃退し、耐え抜いてたが、完全包囲されてから10ヶ月、いよいよ兵糧の尽きる天正九年（1581年）3月22日、討死覚悟で撃って出た。
●岡部元信
○徳川家康
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    <dc:date>2009-07-08T21:46:25+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/351570">
    <title>田原坂の戦い（西南戦争）</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/351570</link>
    <description>★田原坂の戦い（西南戦争）
西郷隆盛の設立した私学校の生徒らの暴挙から、明治政府に不満の持つ士族の反乱へと発展した西南戦争で、熊本城を包囲したまま、北上する西郷軍であったが、次々を博多に上陸し、南下する政府軍を、山鹿～田原～吉次峠～河内海岸の40kmにわたる一帯に防衛線を築き迎え撃つ。
しかし、政府軍の最新鋭の武器と、電信での綿密な連絡網には勝てず明治十年（1877年）3月20日、田原坂は、その日のうちに陥落しました</description>
    <content:encoded><![CDATA[
★田原坂の戦い（西南戦争）
西郷隆盛の設立した私学校の生徒らの暴挙から、明治政府に不満の持つ士族の反乱へと発展した西南戦争で、熊本城を包囲したまま、北上する西郷軍であったが、次々を博多に上陸し、南下する政府軍を、山鹿～田原～吉次峠～河内海岸の40kmにわたる一帯に防衛線を築き迎え撃つ。
しかし、政府軍の最新鋭の武器と、電信での綿密な連絡網には勝てず明治十年（1877年）3月20日、田原坂は、その日のうちに陥落しました
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    <dc:creator>indoor-mamarx</dc:creator>
    <dc:date>2009-06-27T22:44:04+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/351568">
    <title>二重峠の戦い（西南戦争）</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/351568</link>
    <description>★二重峠の戦い
1877年3月18日
1月30日の鹿児島私学校生による火薬庫襲撃事件で幕を開けた西南戦争で、2月22日より西郷軍に包囲され孤立する熊本城を救うべく豊後口第二号警視隊・副指揮長兼一番小隊長として阿蘇側から二重峠へと進出する元会津藩・佐川官兵衛。
西郷軍が構築した砦の争奪で、7時間にわたる死闘の最中、官兵衛は、薩摩軍の小隊長・鎌田雄一郎を視野に捕らえ、自然のうちに一騎打ちの体制となり、雄一郎を追い詰める。
しかし、藪の中に潜んでいた薩摩の狙撃兵から狙い撃ちされ、その命を落とした。
●佐川官兵衛
○鎌田雄一郎
（戦いは、政府軍の勝利）
</description>
    <content:encoded><![CDATA[
★二重峠の戦い
1877年3月18日
1月30日の鹿児島私学校生による火薬庫襲撃事件で幕を開けた西南戦争で、2月22日より西郷軍に包囲され孤立する熊本城を救うべく豊後口第二号警視隊・副指揮長兼一番小隊長として阿蘇側から二重峠へと進出する元会津藩・佐川官兵衛。
西郷軍が構築した砦の争奪で、7時間にわたる死闘の最中、官兵衛は、薩摩軍の小隊長・鎌田雄一郎を視野に捕らえ、自然のうちに一騎打ちの体制となり、雄一郎を追い詰める。
しかし、藪の中に潜んでいた薩摩の狙撃兵から狙い撃ちされ、その命を落とした。
●佐川官兵衛
○鎌田雄一郎
（戦いは、政府軍の勝利）

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    <dc:date>2009-06-27T22:34:14+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/350885">
    <title>奉天会戦</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/350885</link>
    <description>★奉天会戦
1905年2月21日～3月10日
明治三十七年（1904年）2月10日に、日本の宣戦布告によって開戦された日露戦争・・・翌・明治三十八年（1905年）1月2日には、多大なる犠牲を払って旅順を陥落させた日本軍だったが、数々の熱戦は、とても勝利として手放しで喜べるものではなく、ロシア側は、シベリア鉄道の全線開通によって、未だ無傷の兵が続々と西からやって来る状況であるものの、日本側は1月の終わり頃には、旅順の北東にある奉天に近い、沙河まで軍を進めたが、厳しい冬という事もあって、もはや将兵は疲れきった状態であった。
ロシア側は、日本の疲れを見切ってか、ここらあたりでの決戦を決意・・・日本軍の最西端を守る秋山好古少将率いる支隊に、1月25日未明、ロシア軍の攻撃が開始される。
黒溝台会戦と呼ばれるこの戦いは何とか死守する事ができたが、もはや一刻の猶予もならない。
かくして2月21日、ロシア軍32万、日本軍25万、いよいよ一大決戦の幕が上がった。
激しい戦闘の中、日本のおとり作戦が功を奏して、撤退を開始するロシア軍・・・実は、未だ無傷のバルチック艦隊を持つロシアは、ここで陸戦の勝ちにこだわる必要はなかったのである。
●クロパキトン（ロシア軍）
○乃木希典（日本軍）</description>
    <content:encoded><![CDATA[
★奉天会戦
1905年2月21日～3月10日
明治三十七年（1904年）2月10日に、日本の宣戦布告によって開戦された日露戦争・・・翌・明治三十八年（1905年）1月2日には、多大なる犠牲を払って旅順を陥落させた日本軍だったが、数々の熱戦は、とても勝利として手放しで喜べるものではなく、ロシア側は、シベリア鉄道の全線開通によって、未だ無傷の兵が続々と西からやって来る状況であるものの、日本側は1月の終わり頃には、旅順の北東にある奉天に近い、沙河まで軍を進めたが、厳しい冬という事もあって、もはや将兵は疲れきった状態であった。
ロシア側は、日本の疲れを見切ってか、ここらあたりでの決戦を決意・・・日本軍の最西端を守る秋山好古少将率いる支隊に、1月25日未明、ロシア軍の攻撃が開始される。
黒溝台会戦と呼ばれるこの戦いは何とか死守する事ができたが、もはや一刻の猶予もならない。
かくして2月21日、ロシア軍32万、日本軍25万、いよいよ一大決戦の幕が上がった。
激しい戦闘の中、日本のおとり作戦が功を奏して、撤退を開始するロシア軍・・・実は、未だ無傷のバルチック艦隊を持つロシアは、ここで陸戦の勝ちにこだわる必要はなかったのである。
●クロパキトン（ロシア軍）
○乃木希典（日本軍）
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    <dc:date>2009-06-23T18:59:15+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/328686">
    <title>勝沼戦争</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/328686</link>
    <description>★勝沼戦争
1868年3月6日
鳥羽伏見以来、東海道と東山道の二手に分かれて江戸を目指す新政府軍を迎え撃つべく、新撰組の生き残り70名を中心に、新たに編成された総勢170名の甲陽鎮撫隊は、一路、甲州街道を西に進むが、宿場での女遊びに豪遊、さらに、近藤勇や土方歳三の故郷・多摩を通りかがった時に大歓迎を受けてしまい、その間に新政府・東征軍の板垣退助に甲府城を落とされてしまう。
やむなく、柏尾の大善寺に陣を敷いて戦闘を開始するが、甲陽鎮撫隊は、再編制したとは言え、軍隊自身は新撰組のままの旧式、一方の新政府軍は、にわか召集ではあったものの西様式軍隊の最新装備で、しかも1200人もの軍勢で、鎮撫隊の9倍近くあった。
もはや、刀や槍では、とうてい立ち向かう事はできず、いつしか、その人数は100人を切ってしまい、甲陽鎮撫隊は敗走する。
●幕府・甲陽鎮撫隊（近藤勇）
○新政府・東山道東征軍（板垣退助）
</description>
    <content:encoded><![CDATA[
★勝沼戦争
1868年3月6日
鳥羽伏見以来、東海道と東山道の二手に分かれて江戸を目指す新政府軍を迎え撃つべく、新撰組の生き残り70名を中心に、新たに編成された総勢170名の甲陽鎮撫隊は、一路、甲州街道を西に進むが、宿場での女遊びに豪遊、さらに、近藤勇や土方歳三の故郷・多摩を通りかがった時に大歓迎を受けてしまい、その間に新政府・東征軍の板垣退助に甲府城を落とされてしまう。
やむなく、柏尾の大善寺に陣を敷いて戦闘を開始するが、甲陽鎮撫隊は、再編制したとは言え、軍隊自身は新撰組のままの旧式、一方の新政府軍は、にわか召集ではあったものの西様式軍隊の最新装備で、しかも1200人もの軍勢で、鎮撫隊の9倍近くあった。
もはや、刀や槍では、とうてい立ち向かう事はできず、いつしか、その人数は100人を切ってしまい、甲陽鎮撫隊は敗走する。
●幕府・甲陽鎮撫隊（近藤勇）
○新政府・東山道東征軍（板垣退助）

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    <dc:creator>indoor-mamarx</dc:creator>
    <dc:date>2009-06-13T15:43:28+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/328681">
    <title>隼人の反乱</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/328681</link>
    <description>★大隅隼人の反乱
720年2月29日～721年7月7日
未だ完全に支配しきれてはいなかった南九州の隼人族へ、大和政権が、その支配を強化するに至って、彼らは抵抗するようになる。
養老四年（720年）の2月29日に、大隅国司の陽候史麻呂が殺害された事に単を発したこの隼人の反乱は、数千人の隼人勢が7箇所の城に立てこもり、1年半に渡って抵抗を続けた大きな反乱で、現在では、隼人の反乱と言えば、この養老四年の反乱の事を指す。
●隼人族
○大伴旅人</description>
    <content:encoded><![CDATA[
★大隅隼人の反乱
720年2月29日～721年7月7日
未だ完全に支配しきれてはいなかった南九州の隼人族へ、大和政権が、その支配を強化するに至って、彼らは抵抗するようになる。
養老四年（720年）の2月29日に、大隅国司の陽候史麻呂が殺害された事に単を発したこの隼人の反乱は、数千人の隼人勢が7箇所の城に立てこもり、1年半に渡って抵抗を続けた大きな反乱で、現在では、隼人の反乱と言えば、この養老四年の反乱の事を指す。
●隼人族
○大伴旅人
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    <dc:creator>indoor-mamarx</dc:creator>
    <dc:date>2009-06-13T15:27:50+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/328678">
    <title>桜田門外の変</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/328678</link>
    <description>★桜田門外の変
1860年3月3日午前9時頃
この日、江戸城内では上巳の節句を祝う盛大な祝宴が行われる事になっており、大老・井伊直弼も諸大名に混じって登城の徒についたが、桜田門に向かう途中、水戸脱藩浪士・17名と薩摩脱藩浪士・1名に襲撃され、命を落とした。
彦根藩上屋敷から桜田門までわずか400mの途中に起こった15分間の出来事であった。
●井伊直弼
○水戸脱藩浪士・薩摩脱藩浪士</description>
    <content:encoded><![CDATA[
★桜田門外の変
1860年3月3日午前9時頃
この日、江戸城内では上巳の節句を祝う盛大な祝宴が行われる事になっており、大老・井伊直弼も諸大名に混じって登城の徒についたが、桜田門に向かう途中、水戸脱藩浪士・17名と薩摩脱藩浪士・1名に襲撃され、命を落とした。
彦根藩上屋敷から桜田門までわずか400mの途中に起こった15分間の出来事であった。
●井伊直弼
○水戸脱藩浪士・薩摩脱藩浪士
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    <dc:creator>indoor-mamarx</dc:creator>
    <dc:date>2009-06-13T15:14:53+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/317014">
    <title>西南戦争・熊本城攻防戦</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/317014</link>
    <description>★西南戦争・熊本城攻防戦
1877年2月22日～4月15日
明治十年（1877年）1月30日の鹿児島の私学校の生徒による政府火薬庫襲撃事件に単を発した西南戦争で、陸路での北上を決定した薩摩軍は、2月15日に鹿児島を出陣し、2月22日には九州の守りの要である熊本城を包囲して攻撃するが天下の名城の守りに苦戦する。
やがて政府の援軍が海路にて九州へ向かい、続々と博多から上陸しているとの情報を得て、一部の兵を熊本城の包囲に残し、本隊は、南下する政府軍を迎撃すべく、さらに北上するが、3月19日の二重峠、3月20日の田原坂での激突に苦戦する間に政府軍は海路にて迂回して、熊本城の南側にあたる八代海から上陸した別働隊・衝背軍が北上・・・田原坂の陥落により、薩摩軍が敗走する中、52日間耐え抜いた熊本城の包囲が解かれた。
●西郷隆盛
○谷千城</description>
    <content:encoded><![CDATA[
★西南戦争・熊本城攻防戦
1877年2月22日～4月15日
明治十年（1877年）1月30日の鹿児島の私学校の生徒による政府火薬庫襲撃事件に単を発した西南戦争で、陸路での北上を決定した薩摩軍は、2月15日に鹿児島を出陣し、2月22日には九州の守りの要である熊本城を包囲して攻撃するが天下の名城の守りに苦戦する。
やがて政府の援軍が海路にて九州へ向かい、続々と博多から上陸しているとの情報を得て、一部の兵を熊本城の包囲に残し、本隊は、南下する政府軍を迎撃すべく、さらに北上するが、3月19日の二重峠、3月20日の田原坂での激突に苦戦する間に政府軍は海路にて迂回して、熊本城の南側にあたる八代海から上陸した別働隊・衝背軍が北上・・・田原坂の陥落により、薩摩軍が敗走する中、52日間耐え抜いた熊本城の包囲が解かれた。
●西郷隆盛
○谷千城
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    <dc:creator>indoor-mamarx</dc:creator>
    <dc:date>2009-06-07T11:31:14+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/317004">
    <title>大友二階崩れの変</title>
    <link>http://timeline.nifty.com/portal/show/1499/317004</link>
    <description>★大友二階崩れ
1550年2月10日
豊後の戦国大名であった名門・大友氏の第20代当主・大友義鑑は、正室の産んだ義鎮という21歳になる長男がいるにも関わらず、側室の産んだ三男・塩市丸を後継者に立てようと考え、義鎮が別府温泉へと出かけたすきに、重臣・4名を順々に大友館に呼び出し、心の内を打ち明ける。
しかし、その話を聞いた4名が猛反対したため、4人のうちの二人を、その場で斬ってしまう。
驚いた残りの二人が、1550年2月10日、館の二階で寝ていた塩市丸とその母を襲撃し、母子を殺害し、義鑑にも重傷を負わせるが、駆けつけた側近によって斬られる。
別府から戻った義鎮が、虫の息の父・義鑑から家督を譲るとの約束を取り付けると、その2日後に義鑑も死亡した。
上記のように館の二階で起こったので『二階崩れの変』と呼ばれるこの騒動でのドサクサで、うまく後継者となった義鎮が、後の大友宗麟である。</description>
    <content:encoded><![CDATA[
★大友二階崩れ
1550年2月10日
豊後の戦国大名であった名門・大友氏の第20代当主・大友義鑑は、正室の産んだ義鎮という21歳になる長男がいるにも関わらず、側室の産んだ三男・塩市丸を後継者に立てようと考え、義鎮が別府温泉へと出かけたすきに、重臣・4名を順々に大友館に呼び出し、心の内を打ち明ける。
しかし、その話を聞いた4名が猛反対したため、4人のうちの二人を、その場で斬ってしまう。
驚いた残りの二人が、1550年2月10日、館の二階で寝ていた塩市丸とその母を襲撃し、母子を殺害し、義鑑にも重傷を負わせるが、駆けつけた側近によって斬られる。
別府から戻った義鎮が、虫の息の父・義鑑から家督を譲るとの約束を取り付けると、その2日後に義鑑も死亡した。
上記のように館の二階で起こったので『二階崩れの変』と呼ばれるこの騒動でのドサクサで、うまく後継者となった義鎮が、後の大友宗麟である。
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    <dc:creator>indoor-mamarx</dc:creator>
    <dc:date>2009-06-07T11:09:11+09:00</dc:date>
  </item>
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